1910年 (明治43年)
創業者・柳瀬和市が柳瀬和市商店を開業。妻のカネと共に哺乳器の製造卸商を開始。
1919年 (大正8年)
大阪市南区(現・中央区)に店舗を移転。
1939年 (昭和14年)
創業者の柳瀬和市が56歳で死去。長男の正三郎が後継者として経営を受け継ぐ。
1945年 (昭和20年)
大阪大空襲により店舗が被害を受ける。
1948年 (昭和23年)
カネの元に出兵していた四人兄弟全員が奇跡的に生還。四人の兄弟たちと共に戦後の混乱の中再出発を果たす。同年9月20日、個人商店組織を法人化。資本金30万円で、柳瀬ワイチ株式会社を設立し、初代社長にカネが就任する。
1951年 (昭和26年)
沖縄で開催された「那覇展示会」に医療用品のサンプルを出品。沖縄最大の医薬品会社より注文を受け、医療品分野では直接輸出のできる唯一の会社として、沖縄への輸出販売において独占状態となる。
1955年 (昭和30年)
世界的な好景気の中、柳瀬ワイチも事業拡大に着手。業界に先駆け、「貿易部」を新設。国内卸部との二部門体制へと移行する。三菱商事株式会社や三井物産株式会社、日綿實業株式会社(現・双日株式会社)などのいわゆる「十大商社」から、神戸や横浜を拠点に個人貿易を手がける中小商社、インド系や東南アジアに強い華僑系まで、150社を超える幅広い取引を展開していた。
1959年 (昭和34年)
資本金を300万円に増資。同時に、東京の中でもっとも賑わいのある中心街であった浅草 に東京営業所を開設。関東の営業拠点とする。
1960年 (昭和35年)
新たに直接輸出部門を開設。沖縄との取引経験を生かし、いち早く海外への輸出をスタートさせ、当時医薬品卸業界で直接海外に輸出できる唯一の企業として知られるようになる。
1973年 (昭和48年)
国内初のピストン式さく乳器「カネソンさく乳・哺乳器」を発売。同時に「カネソン」ブランドで母乳育児の自社ブランドを展開する。「カネソン」のブランド名は、社長の正三郎により、畏敬する母親・カネの息子(英語でson) である四兄弟が作り出した商品、という意味である。
1975年 (昭和50年)
大手商社と手を組んで間接取引による海外への展開を拡充。「プロジェクト」と呼ばれる大事業も手がけるようになっていた。JICA(国際協力事業団)〔現・国際協力機構〕によるODA(政府開発援助)事業として建設された、ベトナム・ホーチミンの総合病院・チョーライ病院もその一つであった。
1980年 (昭和55年)
初代社長の柳瀬カネが91歳で死去。長光寺にて社葬を行う。
1981年 (昭和56年)
資本金を3,000万円に増資。
1983年 (昭和58年)
「カネソン」ブランドが確立され国内営業が拡大。また、直接輸出と間接取引がいずれも好調に推移した1983(昭和58)年、年商が初めて20億円を超え、過去最高の売り上げを達成する。
1986年 (昭和61年)
正三郎社長が退任して会長となり、孝夫常務が新社長に就任。
1987年 (昭和62年)
会長の柳瀬正三郎が75歳で死去。和光殿にて社葬を行う。
1992年 (平成4年)
四代目社長に横村豊治が就任。孝夫前社長が脳梗塞で倒れた後を受けて、急遽登板のバトンタッチであった。
1995年 (平成7年)
本社を現在の大阪市都島区都島北通1丁目に移転。分散していた倉庫、加工工場などを集約する。
1996年 (平成8年)
柳瀬秀基が五代目社長に就任。
1998年 (平成10年)
母乳育児支援研究所を設立。全国の母親や助産婦、保育士に対して悩み事の相談や情報提供をする一方、自社ホームページ「BONYU.COM」を開設。さらなる育児支援の機会づくりを推進する。
2001年 (平成13年)
医療従事者を対象とする「カネソンセミナー」を開始する。
2003年 (平成15年)
育児アドバイザーによる、「ベビーマッサージセミナー」への支援をスタートする。
2007年 (平成19年)
中国・上海に連絡事務所を開設。
2010年 (平成22年)
創業100周年。「人と社会に優しい企業」を目指して、柳瀬ワイチは今、さらなる進化へのスタートラインに立っている。
2016年 (平成28年)
柳瀬喜和が六代目社長に就任。
2020年 (令和2年)
ウェブサイトを全面リニューアル。幅広いモバイルデバイスからも、より快適に。